2023年11月04日

思いやりのパラドックス:個人にはわくが集団にはわきにくい

思いやりの気持ちは、集団に対してよりも、個人に対しての方がより出てくるのでしょうか。その原因として、@大きな数字を把握するのが難しい、あるいは大勢の苦しみを想像するのが難しいといった「認知バイアス」、A大規模災害の規模に圧倒されることによる「モチベーションの低下」があるのではないか。したがって、集団の苦しみの中で個々の被災者を識別できるようにすることが、集団への思いやりを低下させない策になるのではないか。エバ・クロコウ氏が提唱しています。


私たちの生活の中で、特に祝日や人生の節目には、寄付や寄贈といったことがなされます。米国で慈善事業に寄付される金額は、年間およそ5,000億ドルと推定されています。これは、カリフォルニア高速鉄道5本分、あるいはサウジアラビアで開発中の巨大プロジェクト「NEOM」の建設費に匹敵します。

こうした利他の行動は、思いやりの心からくるものです。人は恵まれない人々の立場に立ち、彼らの悲しみを想像することができます。

思いやりが薄れるパラドックス
思いやりは、助け合いや慈善の行為を鼓舞することによって社会に利益をもたらします。しかし、思いやりの程度が実際のニーズや苦難の規模と一致することは珍しい。特により大きな集団、地域社会、あるいは国家全体の苦しみを合わせたものよりも、個々の被災者の苦しみにより深く心を動かされるようです。

マザー・テレサの有名な言葉があります。

「大衆を見ても私は行動しない 個人を見たときに私は行動する.」

これは "Compassion Fade(大まかにいうと「思いやりの薄れ」)"と呼ばれる現象を要約したものです。例えば、2015年に行われた子供のハーバード大学訪問を支援するクラウドファンディング・キャンペーンでは、120万ドルという驚異的な寄付が集まった。それに比べ、同じような時期に西アフリカで起きたエボラ出血熱の健康危機に対する個人の寄付は10万ドルに過ぎなかった。なぜ私たちが感じる思いやりの量は、苦しみの総量や困っている人々の数とは不釣り合いなのでしょうか?

思いやりの薄れの理由
思いやりの薄れのパラドックスは、2つの異なるアプローチによって説明され得ます。

1. 認知バイアス

人々の感情的反応や同情的反応が、さまざまな認知バイアスや思考の限界によってどのように影響されるか。そのような限界のひとつが、私たちの計算能力に関するものです。

多くの人は大きな数字を理解するのに苦労します。10人、50人、100人の集団をイメージすることは可能ですが、それ以上の人数の集団を把握する(規模を感じて腑に落ちて理解する)のはますます難しくなります。その結果、大規模な人間の苦しみに関する抽象的な統計は、処理、理解、共感するのが難しくなります。

もうひとつのバイアスは、「特定可能な(顔のわかる)被害者効果」です。これは、一般的で広範な不幸に関するニュースよりも、個人的で特定可能な犠牲者に関する情報の方が、より鮮明な心象を呼び起こすというものです。詳細な心的イメージは、問題の被害者に感情移入しやすくし、彼らの立場に立ち、彼らの苦しみに共感しやすくします。その結果、思いやりの念は、群衆とは対照的に、個人に対してより大きくなります。

2. モチベーションの低下

人が自分の選択のコストとベネフィットをどのように天秤にかけ、それが他者を助ける動機に影響を与えるか。例えば、一人の被災者を助ける方が、何百人、何千人、あるいは何百万人もの被災者を助けるよりも達成可能であると感じるかもしれません。災害の規模があまりに大きいと、潜在的な援助者を圧倒し、援助行動が無益であると認識されて抑止される場合もあります。

さらに、大規模な援助キャンペーンに少額の寄付をすることで、人々は自分の個人的な寄付が大した違いをもたらさないように感じるかもしれません(例:100万ドル規模の援助キャンペーンの中で5ドル寄付して意味があるのか?と感じる)。

実際、このような文脈での寄付は、インパクトや重要性が低いと認識され、感情的な報酬も低いと感じられます。その結果、思いやりのある寄付に対するモチベーションは、小規模な災害の場合よりも低くなることが多いです。


ではどうしたらいいか?
人間の思いやりや、それに関連した助け合いや利他的な行動は、称賛されるべきものです。しかし、思いやりの薄れというパラドックスは、最悪の苦難にある人たちが比較的少ない援助しか受けられないことを意味します。助け合いの恩恵がより均等に分配され、最も必要としている人々に届くようにするにはどうすればいいか?

大衆への思いやりを高めるための重要な戦略の一つとして、複雑な統計を避けることが挙げられます。その代わりに、犠牲者個人を紹介する。個人的なストーリーを語ることで、大衆の苦しみはより身近なものになり、それによって想像しやすくなります。また、一個人の体験が被害者グループ全体を代表しているとは考えにくいですが、思いやりのある対応に必要なきっかけを与えてくれるかもしれません。

参照
https://www.psychologytoday.com/intl/blog/stretching-theory/202311/the-paradox-of-compassion
posted by ヤス at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学理論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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